コレクション別一覧


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  1. 石巻米沢平之丞漂流記 (イシノマキヨネザワヘイノジョウヒョウリュウキ)
    寛政6年(1793)、石巻港を出港してロシア領に漂流した若宮丸の船員・津太夫の見聞記。津太夫はシベリア・ロシア・南米を経て長崎に帰還した。
  2. 土州漂流人口書 (ドシュウヒョウリュウヒトクチガキ)
    天保12年(1841)に土佐国の漁師・中浜万次郎ら5名が漂流。その後、ハワイ・北米に7年程滞在してて帰国した時の見聞記。
  3. 新集古案 (シンシュウコアン)
    米沢藩主上杉家に関連する古文書を筆写・編集したもの。将軍門・先祖門・景虎門・景勝門・直江門・家臣門・武田門・北条門にわけ編纂される。
  4. 米府鹿子 (ベイフカノコ)
    近世期の代表的な米沢の地誌書。1巻には道程・町名・人口、2巻には米沢城の規模・年中行事、3巻には上級家臣団の石高・菩提寺・家紋、4巻には著名な医師・絵師・歌人・神社、5巻には温泉・名所・産物、6巻には寺院が記される。
  5. 米府鹿の子(2冊本) (ベイフカノコ)
    近世期の代表的な米沢の地誌書。1巻には道程・町名・人口、2巻には米沢城の規模・年中行事、3巻には上級家臣団の石高・菩提寺・家紋、4巻には著名な医師・絵師・歌人・神社、5巻には温泉・名所・産物、6巻には寺院が記される。
  6. 風呂屋の沙汰 (フロヤノサタ)
    「米沢産物の覚」「貝おほひの事」「薫物の方」「見聞雑誌抜書」など、諸雑事について覚書として記録したもの。
  7. 里のしるべ (サトノシルベ)
    置賜の地誌書として明治初期に米沢で出版されたもの。置賜管内の町・村の名称が列記される他、歴代天皇名、国名、史跡なども記される。また、日本地図・米沢市街全図等の地図が挿入されている。
  8. 米沢地名考 (ヨネザワチメイコウ)
    米沢の地名や墓・館・橋などの名称を、漢文調の漢字で表し、別表記や概略を記す。御廟は太宗廟、馬口労町は馬師街、花沢橋は花渓橋など。
  9. 米沢風土記 (ヨネザワフドキ)
    清水彦介が記した米沢の地誌書。江戸時代に書かれた「米府鹿子」などからの引用も見られるが、上杉神社や松岬公園など明治期の事項も記載される。
  10. 米沢里人談 (ヨネザワリジンダン)
    近世期の米沢の地誌書。上巻には国界・気運・方位から道路・仏寺・神社・旧跡などの地誌が収められる。下巻は米沢の歴史や伝説・珍談・習俗などを記す。
  11. 米沢福島領道法御改清帳 (ヨネザワフクシマリョウドウホウオアラタメセイチョウ)
    米沢領内の各街道について、道に沿った峠・村名・川・橋および距離を調べ、彩色で記した帳面。正保2年4月1日から5月20日まで、3人2組に分かれ調査している。正保の国絵図作成の準備作業と思われる。
  12. 御絵図由来覚書 (オエズユライオボエショ)
    米沢藩で所蔵する各種絵図について、その由来や作成過程、作成に関わる資料を記した覚書。政方(閑養)83歳の時の覚書。
  13. うたひの本 (ウタイノホン)
    謡曲本。①に「楊貴妃」、②に「野宮」、③に「養老」、④に「羽衣」の紙片。直江公使用本の貼り紙有り。
  14. 旧府学 興譲館規 (キュウフガク コウジョウカンキ)
    藩校興譲館に関する、「興譲館戒令」「同当直勤方」「同備火戒約」「紀先生御答書」「学要弁」の5資料を筆写する。「学要弁」は文化10年(1813)莅戸政以の撰。
  15. 釈菜行事 (セキサイギョウジ)
    安永6年に藩校興譲館の聖堂(孔子廟)で行われた釈菜行事について、その詳細を記録したもの。行事を指揮する祭酒は儒者・片山元傐(提学)が勤め、都講の千坂清高と片山一興が記録した。
  16. 嚶鳴館遺草 (オウメイカンイソウ)
    細井平洲の和文の遺稿集。門人の西条藩士上田雄次郎がまとめ、平洲没後33年の天保6年(1835)に刊行された。漢詩文をまとめた「嚶鳴館遺稿」は文化6年に刊行されている。
  17. 太室先生答問 (タイシツセンセイトウモン)
    丸山が太室の門弟として学んでいた時、儒学に関して質問し、太室が回答したことを纏めたものに、莅戸・大石(共に米沢藩士)への手紙の回答を加えたもの。
  18. 孝経 (コウキョウ)
    米沢藩の医学校・好生堂で刊行した孝経。享保17年の太宰純の重刻古文孝経序を巻頭に載せ、本文の上には太宰の註を記す。
  19. 象潟行 (キサカタコウ)
    米沢俳人の里杏と松和(立町の商人・広瀬市左衛門)が、芭蕉の足跡をたどり、尾花沢・吹浦・羽黒山・鶴岡・大山・村上を巡り、当地の俳人達と詠んだ俳句を載せる。また、米沢近辺の俳人の句も載せる。
  20. 桜谷百首 (サクラダニヒャクシュ)
    米沢城の西にある古志田に山桜の名所があり桜谷と呼ばれる。歌人として知られる泉崎は、仲間と桜谷で花見を楽しみ、その思いを詠んだ和歌百首を一巻に纏めたもの。親友の画家・中西南喬が描いた彩色の挿絵も見事である。
  21. てには秘伝 (テニハヒデン)
    米沢藩士で歌人の関口満雅(号・東嶺)が、宝暦3年に江戸桜田邸で書写した和歌の秘伝書。
  22. 松島日記 (マツシマニッキ)
    矢尾板梅雪が文政7年に松島・金華山まで旅した際の紀行文。4月8日に米沢を出発、17日に松島を見学した後、20日には金華山を参詣し、帰路は山寺をまわり28日に米沢に到着している。北村孫四郎の序、泉崎真畔の後跋。
  23. 北越行日記 (ホクエツコウニッキ)
    外題は「小千谷行日記」。荒砥の商人・大貫衛足(俳号は遅日庵)が文化元年(1804)に小千谷まで旅をした際の紀行文。5月1日に荒砥を出発、小千谷の俳人・野口夜江を訪問・滞在し、7月5日に帰着している。
  24. 愛日吟社稿 (アイジツギンシャコウ)
    米沢藩と上山藩での門生が編集・刊行した服部の漢詩遺稿集。「愛日」は服部の講書堂名。神保蘭室の序文、武田(鳥海山人)の跋あり。
  25. 宜雨堂集 (ギウドウシュウ) 2巻
    米沢藩儒者・神保綱忠(号は蘭室)の漢詩集。版木を彫ったのは米沢大町の彫師・舟山善四郎で米沢で出版したもの。
  26. 蠖堂詩鈔 (カクドウシショウ)
    山田蠖堂の漢詩集。慶応3年刊行の『蠖堂遺稿』(AB285001)とは、収録順が異なる。万延元年、平田忠安の写。
  27. 聖堂告文集 (セイドウコクブンシュウ)
    米沢藩の聖堂へ奉じた献章・告文・祝文を留めた文集で、作者(筮者)は片山元傐。宝永6年(1709)から正徳3年(1713)迄を収める。
  28. 宜雨堂集 上 (ギウドウシュウ)
    蘭室の漢詩集。宜雨堂の用箋に記す。蘭室の自筆稿本か。朱は樺島石梁(久留米藩儒学者)によるものか。文政5年に米沢で刊行される。
  29. 拙谷矢先生詩集 (セッコクヤセンセイシシュウ)
    矢尾板三印の漢詩集。延宝8年(1680)元旦から貞享元年(1684)までの漢詩を収める。
  30. 物語(伊勢物語) (モノガタリ)
    伊勢物語の写本で、室町後期か近世前期の写しか。表紙には元禄以前の写と記される。
  31. 太室集 (タイシツシュウ)
    太室の詩文集。①は1・2巻、②は3・4巻、③は7・8巻、④は11・12巻。
  32. 御詩和韻集 (ギョシワインシュウ)
    中国皇帝が読んだ詩と、その詩に対して琉球の進貢使(中国に貢物を持って行く使者)が和韻した詩を集めたもの。
  33. 御製併和詩 (ギョセイナラビニワシ)
    琉球の漢詩集。蔡徳懋(蔡大鼎の父)が写し、蔡大鼎が譲り受けたものか。
  34. 香草斎詩註 (コウソウサイシチュウ)
    黄任の詩文集。沖縄の政治運動家・林世功(字は小叙)の旧蔵書で、表紙貼り紙には、大正13年に伊佐早謙が沖縄で得たと記す。
  35. 竜渚先生遺稿 (リュウチョセンセイイコウ) 9巻
    中津藩(大分県)の儒学者・倉成善司(号は竜渚)の漢詩集。竜渚は鷹山の師・細井平洲を介して米沢藩との交流があり、享和2年(1802)に米沢を訪問している。
  36. 越後古実聞書 (エチゴコジツキキガキ)
    戦国期の越後や上杉家に関する記述を収録。文政4年に平吉豊(三俣九兵衛・侍組)68歳が、鈴木氏が所蔵する聞書3冊を抄写したもの。
  37. 鶴城叢談 (カクジョウソウダン)
    米沢藩の著名人物についての美談・逸話を纏めたもの。1巻は謙信・景勝、2巻は定勝以降の藩主と家族、3巻以降は本庄美作ほか159名の家臣団・領民の記事である。
  38. 古案記録草案 (コアンキロクソウアン)
    宝暦5年(1755)に色部隆長が、色部家に伝来した古文書を、歴代ごと案文を付して編纂したもの。現在に伝わる色部家文書には残っていない文書が収録されていて貴重である。
  39. 任職叢考 (ニンショクソウコウ)
    米沢藩の役職について、奉行(国家老)から順次、役職の由来や変遷について事例を示しながら記す。安政2年(1855)の事項が記されるので、幕末期に編集されたものと思われる。
  40. 諸庁根元記 (ショチョウコンゲンキ)
    平夫銀蔵・青苧蔵・御林方・蝋御蔵など米沢藩の諸役場について、その始まりや昔の取り計らい方などを纏めたもの。柳町清兵衛が記した諸帳面と諸役場根元記を礎に、山崎・宮越が増補した。
  41. 諸組由緒書 (ショクミユイショガキ)
    米沢藩家臣団の諸組の由緒を写し集める。乾は猪苗代組・御徒組・三十挺御手鑓組の由緒を収録、坤には段母衣組・伏嗅組・八ケ森足軽・御土蔵番組の由緒を収録。
  42. 藩議寮私誌 (ハンギリョウシシ)
    藩議寮は明治3年9月に設けられた米沢藩の議会。藩議寮の規則や、議会日誌、議案、意見書などを、議員の一人である清水彦介が私誌として記録したもの。
  43. 聿修篇 (イッシュウヘン)
    上杉鷹山の藩政改革を推進した奉行(国家老)竹俣当綱の事蹟録。馬場は役所役として竹俣の下で勤め、当綱の孫・良綱の依頼を受け編集したもの。
  44. 岩瀬小右衛門覚書 (イワセコエモンオボエガキ)
    寛文4年の御半領で屋代郷3万石が米沢藩の御預所となる。その御預所代官として勤めた岩瀬の、御預所に関する諸事覚書。
  45. 管見談 (カンケンダン)
    米沢藩が家臣団に意見を募集した際に提出された建言書。序論・士人・農人・町人にわけ政策を述べ、これまでの藩政を批判している。著者の立遠は父の罪に連座していたが、この意見書が認められ、御記録所係に登用された。
  46. 旧例書抜 (キュウレイヌキガキ)
    米沢藩領内の故実や、税金や役職、諸制度などの旧例を書写し一冊に纏めたもの。「羽州往古より諸社堂并諸社料御知行寄進米」から「寛政三諸所江御役屋引軒高」まで、寛政年間までの48項目を収録する。
  47. 濫觴記 (ランショウキ)
    米沢藩での諸行事、諸願書など様々な事例を、諸記録から抜書したもので、その濫觴についても触れる。後半には、「米藩養蚕起元」、「大砲濫觴」等の記載がある。
  48. 笹野観音通夜物語 (ササノカンノンツヤモノガタリ)
    米沢藩の藩政を批判した資料。三手組の陰士、町人、扶持方の隠居、もと富豪の老人の四人の話を載せ、おもに農民の立場から鋭く藩政を批判している。
  49. せなかあぶり (セナカアブリ)
    「背暴」とも記す。蓄粟・米価・水碓・日市・奢侈・武備・産物・養蚕の8項目について現状と意見を記載する。米沢藩政の記録。
  50. 総紕 (ソウヒ)
    寛政3年、隠居していた莅戸善政を藩政中枢の中老に復帰させ、藩政改革は再始動した。「総紕」は莅戸が改革の基本方針として発表したもので、47項目の改革の方策が示される。上杉文書(米沢市上杉博物館蔵)には上下2冊本の写本(上杉827)がある。
  51. 米沢雑事 (ヨネザワザツジ)
    謙信や家臣の逸話、鉄砲に関わる事項、米沢城下で起きた出来事や災害など、様々な雑話を収録する。下限は文政12年の江戸大火の記載。
  52. 樹畜建議 (ジュチクケンギ)
    米沢藩の藩政改革の一環として莅戸善政(当時は中老)が提出した、衣食住日用品資源の増産計画書。この計画は、直ちに大目付・六老といった藩中枢や、担当役人に回覧され、意見が提出された。
  53. 樹畜建議衆評 (ジュチクケンギシュウヒョウ)
    莅戸善政が提出した増産計画書に対し、黒井半四郎(六老)や丸山平六(大目付)、担当役人が提出した意見書をまとめたもの。
  54. 長崎日記 (ナガサキニッキ)
    窪田は、嘉永6年に長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの応接役に選ばれた儒学者・古賀謹一郎の門弟。古賀に随行し、長崎までの紀行文(上巻)、長崎での交渉の様子(中巻)、長崎から米沢までの紀行文(下巻)を収める。
  55. 要情秘録 (ヨウジョウヒロク)
    知行収納の事から御厩方まで、諸役課税に関して、157項目について記載する。米沢藩の税制についての基礎資料。
  56. 邑鑑 (ムラカガミ)
    置賜郡(上長井と下長井に分ける)・伊達郡・信夫郡の、各村の石高、戸数、人数および桑・漆・紅花・青苧の特産作物の有無を記す。近世初頭の米沢藩領村落の基礎資料。その記載の元となった検地の年代に関し論争がある。
  57. 町家大概書 (マチヤダイガイショ)
    米沢城下の町方に関する記録。町方16町の寛政3年(1791)の竈数(戸数)や検断・組頭などの氏名を記すほか、町家火消桶割・同定火消場所・日市金の根元・義倉の根元などを記す。
  58. 郷村出役心得之覚 (ゴウソンシュツヤクココロエノオボエ)
    安永元年(1772)、米沢藩は農村復興策の一つとして新たに郷村教導出役12名を任命、出役は農村に居住し農民の生活を指導した。その出役に布達された「教えの事」と「出役中心得之次第」の二つの心得書。本書は米沢藩士の小川尚篤の筆。
  59. 安政秘録 (アンセイヒロク)
    3月3日に起きた桜田門外の変の状況を米沢に知らせた仙仁玄通(米沢藩医)の書状の写、7日付の江戸からの書状の写の外、桜田門外の変に関する記録を収録する。
  60. 飯粮集 (ハンロウシュウ)
    天明3年(1783)の飢饉の際、藩の命によって米沢藩医14名が、飯の糧(かて)になる草木を調べ、「民間備荒録」に記していないものを書き記したもの。この調査が、後に出版配布される「かてもの」に生かされた。
  61. 凶荒予備 (キョウコウヨビ)
    莅戸善政が為政者の立場で、凶作への対応策や通達を纏めたもの。天明飢饉の経験をふまえ、かてものの心がけ、酒豆腐菓子の禁止令など、具体的な対応策が記される。自序は寛政7年とあるが、同9年の通達案が入り、寛政10年に編集されたものと考えらえる。
  62. 凶荒録 (キョウコウロク)
    米沢藩が飢饉に対応して通達した法令や、飢饉に関した記録を編集したもの。寛永19年の達から始まるが、主は天明の飢饉に際しての法令を収める。編集濫觴には、後世の亀鑑とするよう片山に編集が命じられた経緯を記す。
  63. 朱子社倉法解 (シュシシャソウホウカイ)
    朱子が説いた社倉(凶作などに備え米も蓄える制度)についての解釈書。「稽古堂蔵書」の印があり、上杉鷹山が備荒蔵の設置に参考としたものか。
  64. 農家立教 (ノウカリッキョウ)
    安永元年に農村を指導する郷村出役を設け12名を任命、その通達、任命者や郷村出役の心得、指導法を記した行事仕立方内評等を収録。
  65. 農政全書国字 (ノウセイゼンショコクジ)
    安永7年(1778)、郷村出役の今成・蓬田が藩に提出した農業改良の提言書。中国の農書や宮崎安貞の「農業全書」を引用するとともに、実績を挙げている農家の作業を取り入れ、改良を提言している。
  66. 飯豊山穴堰記 (イイデサンアナゼキキ)
    寛政10年から文政3年まで20年を要し完成した飯豊山穴堰に関する普請(工事)の記録。付図として穴堰の絵図2枚(23.9×36.1・23.3×32.7)が巻末に挟まれる。
  67. 養蚕手引 (ヨウサンテビキ)
    米沢藩が養蚕の振興を目的として、米沢の気候にあわせた蚕の飼育方法を記したものを木版印刷して領内に配ったもの。享和2年に刊行・配布された「かてもの」を手本に木版印刷されたと思われる。
  68. 最上川通船記 (モガミガワツウセンキ)
    米沢藩の最上川舟運に関する記録。元禄5年の黒滝開削による舟運の願書から、寛政2年の艜船の新造願や、文政13年の願書まで収録する。
  69. 百二十五銀行日記 (ヒャクニジュウゴギンコウニッキ)
    明治11年に米沢に設立された第百二十五国立銀行の業務日誌。一巻は明治13年1月1日から明治14年11月5日まで、二巻は明治14年11月7日から明治18年7月2日まで記される。
  70. 渡部伊右衛門広豊記録 (ワタナベイウエモンヒロトヨキロク)
    大町の豪商・渡部伊右衛門家が書き留めた記録で、文久元年から大正元年まで記す。藩や県からの通達や辞令、献金、表彰等の記録や、冠婚葬祭等、多岐にわたり記される。
  71. 松岬公園記 (マツガサキコウエンキ)
    明治5年に認可された上杉神社の、申請書類や祭礼に関する記録を収めると共に、松岬公園の設立関係記録も収録する。また、明治11年に重野安繹撰の故越後侯上杉謙信神道碑の碑文を収める。
  72. こしかた物語 (コシカタモノガタリ)
    著者78歳の時、これまで見聞してきた種々雑多の話を纏めたもの。仏教説話から、人物伝、当地の云癖、怪談・伝説の類、歴代藩主の事、健康・病気に関する事など、81項目を収める。
  73. 親子咄 (オヤコバナシ)
    町方の商人が記した見聞雑記で、渡部家先祖の話や、米沢城下の大商人の経歴、孝子伝から火の用心の教訓に至るまで71項目を収める。
  74. 井蛙鄙談 (セイアヒダン)
    米沢の剣術家や、米沢城下や郊外での珍事・実話など各種の話題を収録する。巻1・2は剣術家の話、巻3には仇討や幽霊の話、巻4・5には大蛇や髑髏、猫明神など様々な話が記される。

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  1. 管窺武鑑 (カンキブカン)
    上杉関連の軍記物。最初に父・定吉が仕えた上杉謙信・景勝の事を記し「上杉記」とも称される。次に夏目家と縁のある景勝家臣の藤田能登守信吉、定房が仕えた永井家について記し、夏目家についても記す。
  2. 楠正成一巻抄 (クスノキマサシゲイッカンショウ)
    楠木正成の桜井の別れや遺書が記される。本書は刊記・序文がないが、版面は承応3年序の「楠正成一巻書」と同じで、刷や欠損を比較すると、一巻書は一巻抄の修正版と指摘されている。本書は唯一の一巻抄の刊本である。
  3. 軍政集 (グンセイシュウ)
    天文・地利・人政の3巻構成。武王、大公に問うて曰くで始まる中国の兵法書を写したもの。本書は江戸初期あるいは室町時代に遡ると思われる古写本である。
  4. 大魁四書集註 (ダイカイシショシュウチュウ)
    朱熹註の四書。本書は朝鮮古活字本で、1冊目が大学、2冊目が中庸、3・4冊目が論語、5・6・7冊目が孟子。
  5. 甲陽軍鑑 (コウヨウグンカン)
    江戸初期に集成された軍学書。甲斐の国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術が記され、上杉謙信との川中島での合戦の記述も見られる。武田家の家臣・高坂弾正昌信の口述をもとに、小幡景憲が集大成したといわれる。20巻59品
  6. 俳諧雑抄 (ハイカイザッショウ)
    正月から十二月まで1日1句を詠んだ俳諧連歌。山条西実隆の作で、天正10年の写と記されるが、紙質などから江戸時代の再写と思われる。

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  1. 嚶鳴館遺稿 (オウメイカンイコウ)
    上杉鷹山が主導して出版した細井平洲の遺稿集で、鷹山が序文を書いている。本書は鷹山の蔵書・上杉鷹山公御手沢本で、鷹山の手沢(手垢)が見える。なお、版木は米沢市上杉博物館で所蔵。
  2. 経伝通義 (ケイデンツウギ)
    1巻は易経・尚書・詩経・孫子、2巻は大学・孝経・中庸・論語・孟子、3巻は劉向新序・墨子で、12巻は左伝。各中国典籍より抜粋する。
  3. 古序翼 (コジョヨク)
    亀井昭陽が記した漢学の書籍。各巻の巻末に松木彦左衛門・飯田順助・綱島宗弥・山崎良助・富井又吉・大石源蔵の名がみられる。藩士が分担して筆写したものと思われる。
  4. 産語 (サンゴ)
    太宰春台が著した儒学・経済の書。「稽古堂蔵書」印があり、鷹山の書斎に置かれた書物。本文の欄外には墨と朱の書入れが見られるが、鷹山が勉強して書入れたものか。
  5. 三之逕 (サンノミチ)
    鷹山の師であった滝鶴台の記した教訓書。『国書総目録』では宝暦6年の版本があり、その写本か。
  6. 自怡録 (ジイロク)
    米沢藩の漢学者である松木魯堂(秀実)が記した漢学書。
  7. 大湫先生集 (タイシュウセンセイシュウ)
    鷹山の師・南宮大湫の著作集。鷹山公御手沢本には、細井平洲、滝鶴台、南宮秋湫といった師範の著作集が数多く入っている。
  8. 朝鮮来朝記 (チョウセンライチョウキ)
    延享5年(1748・寛延元年)に派遣された朝鮮通信使に関して、対馬府中藩でまとめた記録の写本。藩主は宗義如で、朝鮮人の官職名や献上物、行程など詳しく記される。
  9. 天日月運行 (テンジツゲツウンコウ)
    天文学の書の写で、太陽(日)や月の運行について、その計算法等が記される。鷹山が自ら天文を学ぶために写したものか。
  10. 東冥先生詩則抜粋 (トウメイセンセイシソクバッスイ)
    林東冥の著した「詩則」を抜粋して写したもの。巻末には大正5年に伊佐早憲が記した識語があり、鷹山が勉学のため自ら写したもととし、鷹山の勤勉さを讃えている。
  11. 鷹山公学校設立御趣意書 (ヨウザンコウガッコウセツリツゴシュイショ)
    「総評」と称される鷹山の興譲館設立の趣意書。安永5年(1776)に興譲館が開校するが、役人の計画案に対し、鷹山が所信を記した書状。
  12. 鷹山公草行唐詩選御真蹟 (ヨウザンコウソウコウトウシセンゴシンセキ)
    「唐詩選」の五言絶句の写本。巻末には大正5年に伊佐早憲が記した識語があり、鷹山の真蹟と思われると記す。

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  1. 御絵図由来書 (オエズユライショ)
    絵図方の岩瀬家が、米沢藩で所蔵する国絵図・郷村帳・境絵図・城下絵図・御境諸口絵図などの由来を記したもの。現在、上杉文書に残る大判の絵図の作成経緯を知ることができる。
  2. 米沢城御本丸図 (ヨネザワジョウゴホンマルズ)
    旧米沢城の本丸を、北東側から見て描いた図。本丸の堀と土塁、御三階と称される三層の隅櫓、謙信の遺骸を納める御堂、奥には本丸御殿の屋根が描かれる。
  3. 豊臣秀吉書状 (トヨトミヒデヨシショジョウ)
    秀吉が、去月(天正12年6月)に景勝が贈った太刀・馬・刀と天目茶碗に対するお礼と、証人(人質)を送った事に対する返礼状。上杉の使者は大石播磨守が勤めた。
  4. 徳川秀忠書状 (トクガワヒデタダショジョウ)
    慶長3年、上杉中納言(景勝)が上洛したことに対し、徳川秀忠が大石・岩井・安田の会津三奉行に宛てた書状。
  5. 上条定憲書状 (ジョウジョウサダノリショジョウ)
    天文2年(1533)より上条定憲と長尾為景との争いが再発し(天文の乱)、その戦乱で桐沢が負傷し、養生するように定憲から穴沢新右兵衛尉(長勝)に宛てた書状。
  6. 上杉景勝書状 (ウエスギカゲカツショジョウ)
    景勝が会津三奉行の大石・岩井・安田に対し、諸境の仕置を堅固にするよう命じた書状。慶長3年~同5年頃の書状か。
  7. 上杉景勝書状 (ウエスギカゲカツショジョウ)
    大石元綱の昼夜の働きに対し、景勝が、下平分と大石惣助分の知行を宛行った書状。今後も油断なく働くことを命じている。
  8. 上杉景勝書状 (ウエスギカゲカツショジョウ)
    景勝が家臣の桐沢但馬守に宛てた書状。桐沢はこの頃は枇杷島城城代。書状のお礼と、大石播磨守が秀吉の元から帰国、良い交渉であったことを伝える。
  9. 日記 (ニッキ)
    米沢藩士・木村高広の日記。寛延2年に御右筆に入ってから、安永3年までの出来事などを記している。
  10. 明先日記 (アケサキニッキ)
    米沢藩士・木村高広の日記。宝暦6年正月3日~12月29日までの日記と、同年の小遣や薬の覚等が綴られる。宝暦5年の飢饉後の惨状も記される。
  11. 日記 (ニッキ)
    米沢藩士・木村高広の日記。天明2年正月朔日~10月18日までの日記。最後は病気のため隠居願を提出、許可された記載で終わっている。
  12. 霊前勧進詩歌 (レイゼンカンジンシイカ)
    佐藤家で祀る北野天満(菅原道真)に奉納した詩歌集で、米沢藩領内の武士・町人・農民135人から、俳句・和歌・漢詩207点寄せられ、一巻に仕立てられる。宝暦期頃の米沢の文芸を知る上で貴重な資料。
  13. 渋井太室宛上杉鷹山書1 (シブイタイシツアテウエスギヨウザンショジョウ イチ)
    鷹山から師の渋井太室(佐倉藩儒者)に宛てた書状4通を一軸としたもの。昭和47年に太室の子孫より米沢図書館に寄贈された。
  14. 渋井太室宛上杉鷹山書2 (シブイタイシツアテウエスギヨウザンショジョウ ニ)
    鷹山から師の渋井太室(佐倉藩儒者)に宛てた書状4通を一軸としたもの。昭和47年に太室の子孫より米沢図書館に寄贈された。
  15. 渋井太室宛上杉鷹山書3 (シブイタイシツアテウエスギヨウザンショジョウ サン)
    鷹山から師の渋井太室(佐倉藩儒者)に宛てた書状3通を一軸としたもの。昭和48年に太室の子孫より米沢図書館に寄贈された。
  16. 蝦夷恵曽谷日誌 (エゾエソヤニッシ)
    米沢藩が支配を命じられた北海道の磯谷郡(現・寿都町)へ、米沢藩士7名が調査へ行った際の日記。明治2年10月から翌3年3月まで記す。北海道の風景や風俗を文章で表すとともに、絵師である筆者が描いた挿絵が入る。
  17. 源姓武田氏系図 (ゲンセイタケダシケイズ)
    米沢藩高家衆の武田家の系図。武田家滅亡後、信玄の6男・信清は姉・菊姫が嫁ぐ上杉景勝を頼り、上杉家は重臣として迎え、米沢藩では親戚筋の高家衆として高い家格で遇された。
  18. 新千載和歌集 (シンセンザイワカシュウ)
    室町前期の勅撰和歌集。後光厳天皇の命で藤原為定が撰した。幕末期、飛鳥井家と上杉家は縁戚関係があり、その縁で米沢藩の京都留守居役を勤めた堀尾保助に伝来したものか。
  19. 後撰和歌集 (ゴセンワカシュウ)
    村上天皇の命によって編纂された二番目の勅撰和歌集。堀尾家文書14の「新千載和歌集」と同様、上杉家と姻戚関係のあった公家・飛鳥井家より、米沢藩京都留守居役を勤めた堀尾保助(重興)に贈られたものと推察される。
  20. 江戸道中絵図(米沢~江戸) (エドドウチュウエズ)
    米沢から江戸までの道中を鳥瞰図的に描いた冊子体の絵図帳。各街道の様子や宿場町の外観が描かれている。
  21. 江戸道中絵図(江戸~米沢) (エドドウチュウエズ)
    江戸から米沢までの道中を描いた冊子体の絵図帳。
  22. 門人姓名録 (モンジンセイメイロク)
    米沢藩医の水野家の門人帳。米沢藩領内から最上・庄内や松前学館からの入塾生の名前が記される。幕末から明治期頃の門人帳か。明治12年4月入塾の記載が見える。
  23. 杏隠私記 (アンインシキ)
    米沢藩医であった水野道益の隠居後の日記。万延2年6月に道益が提出した隠居願から始まる。杏陰は隠居後の号か。表紙に江都客舎とあるように、江戸で記された日記である。
  24. 侍組席次 (サムライグミセキジ)
    米沢藩の最上級家臣団・侍組96家の、本姓・石高・屋敷の町名、氏名、嫡子氏名、家紋、菩提寺、知行地を、席順の順番で記したもの。
  25. 綱富一代記 (ツナトミイチダイキ)
    宝暦6年12月の出生から、弘化3年に91歳で養老米を拝領する迄の吉田綱富の一代記。自分の生涯を纏め、自筆したものか。最後に異筆で綱富の法名と嘉永2年11月13日に94歳で病死したことが追記される。
  26. 日記 (ニッキ)
    米沢藩士・吉田綱富の自筆日記。寛政10年正月21日から文化元年12月までを書き留めている。吉田家文書には、この他24冊の綱富の自筆日記が入っている。
  27. 伊勢参宮道中記 (イセサングウドウチュウキ)
    米沢藩士の吉田丈助が、文政3年に仲間6人と伊勢参宮した際の道中日記。2月1日に米沢を出発、伊勢参宮後は、吉野、高野山、大坂、京、善光寺を経由して3月27日に米沢に帰着している。
  28. 猪苗代町古来屋鋪並并見聞雑記 (イナワシロマチコライヤシキナミナラビニケンブンザッキ)
    最初に猪苗代町の屋敷割とその変遷が記され、次に「見聞雑記」が続く。下級藩士であった吉田綱富が見聞した様々なことを振り返って纏めたもの。武士の生活を知る上で貴重な資料となっている。
  29. 鷹山公御大病容体書 (ヨウザンコウゴタイビョウヨウダイショ)
    鷹山(第9代米沢藩主・上杉治憲)が病気となった文政4年10月から、死去する文政5年3月12日まで、鷹山の容態や食事などを記した記録。鷹山の御近習が記したもの。
  30. 猪苗代公務手引草 (イナワシロコウムテビキグサ)
    猪苗代組の勤務の概要を記した手引書。
  31. 菁莪館遺稿 (セイガカンイコウ)
    藁科松白の漢詩遺稿集。菁莪館は松伯の家塾名。松伯の子・子鱗の編。細井平洲と(明和8年)と神保蘭室(寛政2年)の自筆序文を添える。
  32. 編年子爵上杉家記 (ヘンネンシシャクウエスギカキ)
    米沢藩の支藩である米沢新田藩(1万石)の歴代藩主の事蹟を編年で編集したもの。整理番号3(13冊)は初代の勝周公の後半から、勝承公、勝定公、勝道公、勝賢公を収録する。
  33. 翹楚篇 (ギョウソヘン)
    上杉鷹山の側近であった莅戸善政が著した鷹山の事蹟録。鷹山の長男・顕孝に藩主教育のため贈ったもの。明君録として多くの写本が作成され、各地で写本が確認されている。本書は米沢新田藩主上杉勝道の筆写本。
  34. 家之記 (イエノキ)
    当綱が子孫へ伝えるべき教訓や諸知識、薬の知識などを記したもの。朱筆は細井先生とあるが要検討。
  35. 機密 (キミツ)
    隠居押込めに処されている竹俣当綱が、在職中の業績を記し、当綱が奉行職再任が必要であることを、隣国の会津藩に訴えている。
  36. 患難 (カンナン)
    当綱が竹俣家家来に出した達書。苦しい家計の中で苦労をかけたが、新藩主鷹山は上杉家や家臣のため苦労をされているので、今後も倹約に励み尽くしてほしいと依頼している。
  37. 忠恕 (チュウジョ)
    当綱な当家家来へ対し、奉公の心得や作法、教訓を通達した書。
  38. 雨夜のむかし (アマヨノムカシ)
    当綱が起草した、足軽18組に対する奉公の心得、人道の心得。安永8年に通達された。
  39. 四境御〆書 (シサカイオシマリショ)
    安永7年、米沢藩は新たに四境御取締役場を設け四境廻村横目を任命、その四境廻勤役に対して通達された勤方の心得。安永7年12月と安永8年2月の通達を収録。
  40. 小藪のすぐ道 (コヤブノスグミチ)
    竹俣が四境御用掛頭取と東町改所御付横目に示した、勤め方の心得。
  41. 盛栄兆 (セイエイノキザシ)
    天明7年、幕府より鷹山の治世を表彰されたことに関し、鷹山の生来の徳行や、鷹山の治世・業績について記したもの。「衰廃兆」とセットで書かれたものか。
  42. 新撰月表 (シンセンゲッヒョウ)
    片桐が編纂した上杉家の年表で、上杉謙信が誕生した享禄3年から始まる。1年を12カ月の枠に分け、日付と出来事を記載。文政7年の序文を載せるが、年表は天保10年まで書き継がれる。
  43. 耳雑談 (ミミゾウダン)
    安永7年、米沢藩は新たに四境御取締役場を設け四境廻村横目を任命、その四境廻勤役に対して通達された勤方の心得。
  44. 立政録 (リッセイロク)
    米沢藩の政治中枢を担当する奉行・中老・大目付・記録方・筆官・役所役の心得るべきことが、政策ごと詳しく述べられている。また臣道として家臣の勤め方の良い例や悪例を示している。
  45. 案(上言書案文) (アン)
    宝暦12年、竹俣が藩主重定へ上言した際の案文。米沢藩の疲弊状況や、姦佞の臣(森平右衛門)の専横を訴えている。
  46. 樹養篇 (ジュヨウヘン)
    上杉鷹山の重臣・竹俣当綱の提言書。漆・桑・楮の各100万本植立計画を、具体的な数字を示して提言している。
  47. 言上草案八 (ゲンジョウソウアンハチ)
    竹俣や千坂・色部・須田・芋川の5重臣が協議し、8代藩主重定に対して上言した倹約の案文。67ケ条の倹約案を提言している。
  48. 御治国評判書発端 (ゴチコクヒョウバンガキホッタン)
    明和3年に改革案「御治国評判書」が纏められたが、その作成される発端を記す。米沢藩が直面している窮状が記される。
  49. 兎兵法 (ウサギノヘイホウ)
    竹俣が新藩主となった鷹山に対し、米沢藩の軍政や国政に関して、前例や竹俣の意見を示したものか。
  50. 衰廃兆 (スイハイノキザシ)
    鷹山隠居後に採用された、漆木植立の停止、儒者退官など、消極的な政策に対する批判の提言書。「盛栄兆」とセットで書かれたもの。
  51. 治国大言録 (チコクタイゲンロク)
    失脚した竹俣が、先生(神保蘭室か)に対し書き綴った、自分が主導してきた政治の弁明書。
  52. 国政談 (コクセイダン)
    竹俣当綱が記した諸政策の意見および記録。鷹山と竹俣が行った前期藩政改革の概要が知られる。
  53. 聞書雑書 (キキガキザッショ)
    竹俣が、米沢の言葉(方言)の特色や用例等を書き留めた記録。
  54. 細井平洲書状 (ホソイヘイシュウショジョウ)
    平洲が、鷹山の側医・藁科松伯へ宛てた書状。病気のため間もなく帰国する藁科に対し、先日は面談できず残念、諸事を伝える。
  55. 米陽八景 (ベイヨウハッケイ)
    江戸在番の藩士が、米沢の八景として、白子晩鐘・落合落雁・成島夕照・船坂帰樵・遠山暮雪・堂森秋月・舘山秋嵐・宮井夜雨の絵を送ってもらい、漢詩と和歌を添え一巻としたもの。
  56. 寓京漫筆 公武治乱機 (グウキョウマンヒツ コウブチランキ)
    文久3年、藩主上杉斉憲の上洛に供して京都に滞在。京都の混乱した情勢や公武合体運動の動静を見聞し、帰郷後に文久2年から3年頃の京都情勢の推移や見聞した話を纏めたもの。
  57. 甘粕氏家乗 (アマカスシカジョウ)
    上杉家(米沢藩)の重臣である甘粕家の歴史を纏めた記録。御記録所頭取となった甘粕継成が家伝の文書などを基に記述したもので、伝来の鎧の絵や、屋敷の部屋割なども記される。
  58. 軍務雑記 (グンムザッキ)
    戊辰戦争に参謀として越後に出陣した甘粕継成の日記。6月1日から7月1日までを記す。
  59. 軍務雑記 張胆禄 (グンムザッキ チョウタンロク)
    戊辰戦争に参謀として越後に出陣した甘粕継成の日記。5月1日から5月晦日までを記す。
  60. 米沢雑事記 (ヨネザワザツジキ)
    慶長の昔から寛保の頃までの、国内および米沢藩領内の事件・雑話を収録したもの。近房84歳の著作。武士の生活や米沢の風習を知る上で貴重な資料。
  61. 天雷子 (テンライシ)
    「御廟祭再建議」「貸座敷可設之上書」「士族論」などの意見書や、「謙信公小伝」「小林翁を弔スル文」などの原稿を収録する。明治期の清水彦介の著作稿本。
  62. 続天雷子 (ゾクテンライシ)
    「天雷子」の続編だが、1・2巻を欠く。「直江城州墓所修繕募金」などの清水彦介の意見書や原稿を収録する。
  63. 米沢風土記拾遺 (ヨネザワフドキシュウイ)
    清水彦介が以前に記した地誌書「米沢風土記」を増補したもの。米沢、米沢城から始まり、中巻は名勝旧跡、下巻には神社・仏閣の由緒を記す。
  64. 羽陽叢書 (ウヨウソウショ)
    上杉鷹山の事蹟を紹介するために米沢で刊行された叢書。巻1~巻6は鷹山の言葉(誓詞・和歌・訓戒書)を編集した「甘棠編」を載せ、巻7は莅戸太華が著した鷹山の事蹟録「翹楚篇」を載せる。巻8は「政徳篇」。
  65. 日記 (ニッキ)
    米沢藩士・北村信精の日記。文化元年2月6日に郷村出役に任命された事項より、同年10月22日迄の日記と、諸覚を記す。
  66. 日記 (ニッキ)
    米沢藩士・北村信精の日記。文化元年11月から翌2年9月7日迄の日記。郷村出役として北条郷(南陽市)に派遣された時期の日記。郷村出役の仕事を知る上で貴重な資料。
  67. 日記 (ニッキ)
    米沢藩士・北村信精の日記。文化2年9月8日から12月28日迄の日記。郷村出役として北条郷(南陽市)に派遣された時期の日記。郷村出役の仕事を知る上で貴重な資料。
  68. 江戸より米沢迄道中記 (エドヨリヨネザワマダドウチュウキ)
    米沢から江戸までの道中の、各宿駅までの里程、街道や宿駅の様子を記した記録。
  69. 上杉定勝書状1 (ウエスギサダカツショジョウ イチ)
    上杉定勝が江戸家老の千坂に宛てた書状(折紙)13通を一巻に貼り継ぐ。
  70. 上杉定勝書状2 (ウエスギサダカツショジョウ ニ)
    上杉定勝が江戸家老の千坂に宛てた書状(折紙)13通と幕府老中への書状案4通を一巻に貼り継ぐ。
  71. 上杉定勝書状3 (ウエスギサダカツショジョウ サン)
    上杉定勝が江戸家老の千坂兵部少輔高治に宛てた書状9通を一巻に貼り継ぐ。2通目以降は宛名を切り貼り継ぐ。
  72. 上杉定勝書状4 (ウエスギサダカツショジョウ ヨン)
    上杉定勝が江戸家老の千坂に宛てた書状9通を一巻に貼り継ぐ。
  73. 上杉定勝書状5 (ウエスギサダカツショジョウ ゴ)
    上杉定勝が江戸家老の千坂に宛てた書状6通を一巻に貼り継ぐ。
  74. 上杉綱勝書状1 (ウエスギツナカツショジョウ イチ)
    上杉綱勝が江戸家老の千坂兵部少輔高治に宛てた書状(折紙)16通と老中宛書状案等2通を一巻に貼り継ぐ。
  75. 上杉綱勝書状2 (ウエスギツナカツショジョウ ニ)
    上杉綱勝が江戸家老の千坂兵部少輔高治に宛てた書状10通を一巻に貼り継ぐ。
  76. 上杉綱勝書状3 (ウエスギツナカツショジョウ サン)
    上杉綱勝が江戸家老の千坂兵部少輔高治に宛てた書状8通と他2通を一巻に貼り継ぐ。
  77. 上杉綱勝書状4 (ウエスギツナカツショジョウ ヨン)
    上杉綱勝が江戸家老の千坂家に宛てた書状8通を一巻に貼り継ぐ。ただし宛名は切り貼り継がれる。
  78. 上杉綱勝書状5 (ウエスギツナカツショジョウ ゴ)
    上杉綱勝が江戸家老の千坂兵部少輔高治に宛てた書状10通を一巻に貼り継ぐ。
  79. 上杉綱勝書状6 (ウエスギツナカツショジョウ ロク)
    上杉綱勝が江戸家老の千坂兵部少輔高治に宛てた書状7通を一巻に貼り継ぐ。
  80. 上杉綱勝書状7 (ウエスギツナカツショジョウ ナナ)
    上杉綱勝が江戸家老の千坂兵部少輔高治に宛てた書状4通と、他5通を一巻に貼り継ぐ。吉良上野介義央と妹・三姫との婚約を了承する書状を含む。

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  1. 遺穂集 (イホシュウ)
    米沢藩家臣団の諸組の階級・格式・勤方などを書き纏めたもの。寛政10年、馬場66歳で執筆が終わり、同10年に神保蘭室の序文をもらい、清書は享和元年に完成。
  2. 戊辰実戦記 (ボシンジッセンキ)
    戊辰戦争において活躍、小隊長、大隊長、参謀と昇進した斎藤篤信が記した戊辰戦争の記録。戊辰軍記には収録しきれなかった小隊長時代の私記などを収める。
  3. 明治三庚午御触書 (メイジサンカノエウマオフレガキ)
    内藤が米沢藩の常備砲兵に選ばれた明治3年閏10月から同5年までの記録。常備砲兵の訓練の記録や諸通達などを日ごとに記録する。川崎(新島)八重に関する記録もみえ、注目される。

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  1. 古状案 (コジョウアン)
    色部が江戸で古文書を写したもの。直江平八婚礼の覚など直江関連の文書の外、山吉孫三郎関係の古文書などが収録される。なお、所々に米沢の郷土史家・今井清見の加筆がみられる。
  2. 見聞雑録 (ケンブンザツロク)
    李花園の見聞雑録7巻の写で、上杉家や米沢に関する雑話や、米沢街評記、地誌に関する項目などを収録する。
  3. 米沢春秋 (ヨネザワシュンジュウ)
    慶長6年から明和4年までの、米沢藩の重大事項を記した年表。覚上公(初代藩主景勝)から元徳公(9代藩主治憲)まで記されるので、治憲(鷹山)が死去した文政5年以降の編集か。
  4. 花かつみ (ハナカツミ)
    上杉家および米沢藩を中心に、戦国武将の逸話、武家の礼儀や故実、武士の逸話等を集めた雑記随筆。『米沢市史』(S19年版)には、内村蘭皐(藤親)の著作として他に「寝覚の露」「軒端の凩」の書名が載る。
  5. 盍言篇 (コウゲンヘン)
    上杉謙信の略伝。一般に兄晴景との争いなど誤りが広まっているのを憂い、訂正する目的で記述。序は古賀侗庵(儒学者)。巻末に侗庵の「良将達徳」からの写を付す。少々の火損あり。
  6. 奥羽編年史料 (オウウヘンネンシリョウ)
    伊佐早謙が編纂した編年の史料集。文治元年から文禄4年までの奥羽に関する古文書を、編年で収録する。
  7. 上杉侯家士分限簿 (ウエスギコウカシブゲンボ)
    上杉家の越後時代および会津時代の家臣団を記した、「越後侍中上納ノ一紙」「信州侍中定納之一紙」「五拾騎衆定納一紙」と「会津御在城分限帳」の4資料を収録。
  8. 会津御在城分限帳 (アイヅゴザイジョウブゲンチョウ)
    上杉家の会津120万石時代(慶長3~6年)の分限帳。1300名程の家臣名と知行高が記される。
  9. 分限帳 元禄三年 (ブゲンチョウ ゲンロクサンネン)
    元禄3年(1690)の米沢藩の分限帳。始めに御知行目録として知行取の家臣が記され、次いで御扶持目録として扶持取の家臣が記される。
  10. 分限帳 寛政五年 (ブゲンチョウ カンセイゴネン)
    寛政5年(1793)の米沢藩の分限帳。役職・組ごとに、石高(扶持)と姓名が記される。    
  11. 分限帳 享和三年 (ブゲンチョウ キョウワサンネン)
    享和3年(1803)の米沢藩の分限帳。役職や組ごとに、知行(扶持)高・年齢・姓名が記される。 
  12. 分限帳 天保十二年 (ブゲンチョウ テンポウジュウニネン)
    天保12年(1841)の米沢藩の分限帳。役職や組ごとに、知行(扶持)高・家督年・年齢・姓名が記される。 
  13. 分限帳 嘉永二年 (ブゲンチョウ カエイニネン)
    嘉永2年(1849)の米沢藩の分限帳。米沢藩全家臣団の名前・知行高(扶持高)・家督年・年齢が、所属する組ごとに記される。
  14. 御知行定 (ゴチギョウサダメ)
    各役職ごとに、知行高や、新知・加増の先例を調べ書き上げたもの。片山が編集、その有益性が認められ、藩命で清書され藩主の手元と奉行所に備えれれた。奉行所に備えられ写本か。
  15. 先祖由緒帳 (センゾユイショチョウ)
    米沢藩の中級家臣団である三手組(御馬廻組・五十騎組・与板組)の各家臣が提出した先祖の由緒書を纏めたもの。西尾市の岩瀬文庫にも3冊セットあり。
  16. 家督先後録 (カトクセンゴロク)
    慶長7年の侍組座並を始めに記し、その後の侍組の家督や、侍組の変遷を記す。また、跋文には上杉家が越後から会津120万石、米沢30万石、同15万石への変遷経緯を記し、直江兼続等を厳しく批判している。
  17. 南亭余韻 (ナンテイヨイン)
    米沢藩第9代藩主・上杉治憲(鷹山)の遺文を編集したもので、藩主の子弟や家臣に与えた教訓書が多く収録される。南亭とは、鷹山が隠居後に住んだ三の丸御殿(餐霞館)の別称。米沢城の南に位置することから称された。
  18. 南山公御言行録 (ナンザンコウゴゲンコウロク)
    米沢藩第8代藩主・上杉重定の言行をまとめたもの。
  19. 杉山先生御伝記 (スギヤマセンセイゴデンキ)
    鍼の施術法の一つである管鍼法を創始した初代検校の杉山和一と、2代検校の三浦安一、3代検校の島浦和田一の事蹟を記したもの。3代の和田一は米沢の遠山村に生まれ、千勝院の毘沙門天を深く信仰した話が記される。
  20. 米藩名家録 (ベイハンメイシンロク)
    上杉治憲(鷹山)の藩政改革を補佐した名臣の人物・事蹟を紹介する。上巻(天)は竹俣当綱・莅戸善政・莅戸政以の3名、中巻(地)は木村丈八等4名、下巻(人)は佐藤秀周等7名を載せる。
  21. 米沢事跡考 (ヨネザワジセキコウ)
    米沢の地誌書。山田親房が草案を作成し、千葉篤胤が撰んだとする。国堺・封城・城・郷村・山川・土産・神社・仏寺・墳墓・古城・旧跡の11項目が記される。
  22. アメリカ国ヨリ帰国人御答之下書(アメリカコクヨリキコクニンオコタエノシタガキ)
    異国船に助けられアメリカに滞在、その後に帰国した勇之助が質問に回答した下書。勇之助は米沢藩の預地であった越後国岩船郡板貝村の百姓・善之丞の養子。嘉永5年に難破し、同7年に帰国。漂流の状況やアメリカの生活様式等が記される。
  23. 御城下并原々屋鋪割帳 天保15年 (ゴジョウカナラビハラバラヤシキワリチョウ)
    米沢城下及び原方の家臣団屋敷を帳仕立てで作成した絵図。天保15年に作成されたものだが、その後の移動を貼り紙で記載する。
  24. 御城下并原々屋鋪割帳 文政8年 (ゴジョウカナラビハラバラヤシキワリチョウ)
    米沢城下及び原方の家臣団屋敷を帳仕立てで作成した絵図。文政8年に作成されたものだが、その後の移動を貼り紙で記載する。
  25. 邇言 (ジゲン)
    米沢藩の国政に関する建言書。若殿傅役であった近藤宛てに提出され、時期藩主の教育を主眼とした。
  26. 告諭案 (コクユアン)
    米沢藩知事の上杉茂憲が、近代化を目指す国政についての考え方を示し、士卒平民に告諭したもの。
  27. 削封日帳 (サクホウニッチョウ)
    寛文4年(1664)閏5月10日より始まる米沢藩奉行・黒川義忠の奉行日帳。江戸から綱勝死去の報が届いてからの、米沢藩中枢の対応が記される。
  28. 組外公務雑記 (クミホカコウムザッキ)
    米沢藩の組外御扶持方(くみほかごふちかた)が就く役職の、由来や勤務の仕方などを記した公務手引書。青苧御蔵役・御細工頭・御林役など種々の役目や、諸書類の様式、活躍した人物例が記される。
  29. 増補旅使奏訓 (ゾウホリョシソウクン)
    御留守居役の赤津が著した「旅使奏訓」を増補したもの。江戸勤めにあたっての留意事項を記し、江戸と米沢での呼び方の違いなども記される。
  30. 農家伍什組合掟書 (ノウカガジュウクミアイオキテガキ)
    享和元年(1801)、木版印刷して農民に配布された掟書。五人組、十人組、一村、組合村が相互扶助するよう通達している。
  31. 商戸伍什組合掟書 (ショウコゴジュウクミアイオキテガキ)
    享和元年(1801)、木版印刷して城下の町民に配布された掟書。五人組、十人組、町内が相互扶助するよう通達している。
  32. 管見談(別本) (カンケンダン)
    米沢藩が家臣団に意見を募集した際に提出された建言書。林泉文庫本(AB414001)より詳しい記載が見受けられる。
  33. 春日山日記 (カスガヤマニッキ)
    別名「上杉軍記」。謙信の出生から死までを中心に、父・長尾為景、甥の景勝、養子の北条氏秀(景虎)らの事蹟を記す。春日山は上杉謙信の居城。
  34. 慶長鎮東軍鑑 (ケイチョウチントウグンカン)
    直江兼続を中心とした近世軍記物。作者は不明。兼続の家系と生い立ち、上杉景勝に仕え、豊臣秀吉との交渉や徳川家康との対立を経て、米沢に移るまでの出来事を記す。
  35. 越境記 (エッキョウキ)
    「景勝公越後記」とも称される、上杉景勝を主とした軍記物。謙信の死去から始まり、御館の乱、新発田との戦い、上洛の事、会津国替、朝鮮出兵、最上義光との合戦などが記される。冒頭に旧所蔵者である今井清見(郷土史家)の解題が綴られる。
  36. 幼幼精義 (ヨウヨウセイギ)
    ドイツ人医家フーフェランドの著した医学書の蘭訳書から、小児医書の部分を翻訳・出版したもの。日本で初の小児科医書として著名。
  37. 医家必携 (イカヒッケイ)
    西洋(オランダ)の薬物について、薬剤の効用ごとに名称を記し、配分量や使用例を記す。一般医家が容易に参考できる書籍として刊行された。跋文は米沢藩医の髙橋玄勝が記す。
  38. 米沢産物集 (ヨネザワサンブツシュウ)
    幕府の命により米沢藩が元文2年に提出した「産物帳」の写本。米沢藩領内で確認される植物・魚類・鳥類・獣類・虫類の名称が記される。なお、同時に提出された図帳は確認されていない。
  39. かてもの (カテモノ)
    米沢藩が飢饉に備え、糧(かて)となる野草類をいろは順位に列記し、調理法・食べ方を記したもの。木版印刷して領内に配布し、天保の飢饉の際に役立ったといわれる。
  40. 郷村手引 (ゴウソンテビキ)
    米沢藩が農民や農政担当者に布達した法令を収録したもので、農政担当者の手引書となった。本書は西通御代官所に備えられたもので、四冊目は続編として継ぎ足されたもの。
  41. 北条郷寒造之弁 (ホウジョウゴウカンヅクリノベン)
    北村が郷村出役として北条郷漆山村(現在の南陽市)に10年間居住し、農村指導にあたった経験を記したもの。農作業の段取りなど記した農書になっている。
  42. 養蚕手引草 (ヨウサンテビキグサ)
    養蚕の方法を記し刊行した「養蚕手引草」の後ろに、東瀧村(現小国町)養蚕手引役の井上五郎兵衛が記した養蚕に関する箇条書を合せ、装丁している。彫師は大町の舟山(伊豆屋)善四郎。
  43. 松之蹟 (マツノアト)
    米沢城下大町の女流俳人・舟山雨翠の三回忌に際し追善のため編集された俳句集。全国各地の75名の俳人が名を連ねる。編集は安永7年であるが、本書は二十七回忌にあたる享和3年に付録を追加して刊行したものと思われる。
  44. ひとつ松 (ヒトツマツ)
    米沢藩領・成田村の富農・佐々木宇考が逆修(生きているうちに自分の仏事を行うこと)を追善して作った句集。米沢藩の儒者・神保蘭室が序を贈るほか、米沢連などの追悼俳句が収められる。
  45. 伊勢みやげ (イセミヤゲ)
    巣阜坊が伊勢参宮を行った際、見送りの際に俳友が贈った俳句や、旅先で俳人から贈られた俳句をまとめ刊行した俳諧書。見送りの句には、紅二・唇秋・東夕といった米沢俳人の名が見られる。
  46. 太室詩集 (タイシツシシュウ)
    上杉鷹山の師を勤めた渋井太室の漢詩集。巻1から巻6までを3冊に写す。
  47. 興譲館詩集 (コウジョウカンシシュウ)
    藩校興譲館の先生・生徒が作り合った漢詩を記したものか。上巻には香坂昌純以下27名の漢詩、下巻には髙橋亨等23名(上巻と7名重複)の漢詩が収録される。
  48. 遊囊叙録 (ユウノウジョロク)
    享和2年(1802)、倉成が日光や松島を遊覧した後、米沢藩を訪ね鷹山と会した東北旅行の紀行文。漢文で記される。赤湯温泉に7泊し、米沢には19日間滞在、鷹山を始め神保蘭室や竹俣厚綱など米沢藩士・儒者と交流した。
  49. 鶴城四時歌 (カクジョウシジカ)
    米沢藩儒医であった藁科立沢が、米沢の人物が詠んだ漢詩を春・夏・秋・冬ごと16首づつ選び、計64首を一冊に纏めたもの。序文は鷹山の師である細井平洲が寄せている。編者自筆原本。
  50. 飯豊の山ぶみ (イイデノヤマブミ)
    天保9年(1838)、泉崎が友人の佐藤秀臣と氏家高庸と連れ立ち、飯豊山に登山したときの紀行文。途中の道程や登山道が詳しく記されるほか、著者が詠んだ和歌や漢詩が織り込まれる。挿絵は米沢文晁とも称された雪斎(佐藤秀臣)による。
  51. 上堰下堰普請杣帳 寛政10年 (カミゼキシモゼキフシンソマチョウ)
    黒井堰の工事を監督した黒井半四郎が、工事現場で記した野帳。堰や樋の大きさ、人足や用材などの数量を記す。
  52. 上杉定勝書状 (ウエスギサダカツショジョウ)
    上杉定勝が江戸家老の千坂高治にあてた書状。高治の父・安芸守(高信)が22日に死去した報を受け、お悔やみを伝えると共に、江戸の公用が滞らないよう依頼。
  53. 上杉治広書状 (ウエスギハルヒロショジョウ)
    病身の千坂にあてた見舞状。油断なく療養するよう伝えている。千坂太郎左衛門高容は文化元年6月に病身を理由に侍頭を退役、同年2年7月に致仕(隠居)している。この際の見舞状か。
  54. 上杉定勝書状 (ウエスギサダカツショジョウ)
    上杉定勝が江戸家老の千坂伊豆高信に送った書状。直江後室が高野山へ参詣したのに対し、国許から滝沢・大国を派遣した旨を伝える。滝沢の先祖書では寛永4年と記すが、御年譜には記載なし。
  55. 上杉謙信朱印状 (ウエスギケンシンシュインジョウ)
    上杉謙信が上野国小川城(群馬県月夜野町)に居る小河可遊斎に、越後からの荷物受取・関渡を命じた朱印状。印文は鼎の中に「梅」。
  56. 小河可遊斎条書 (オガワカユウサイジョウショ)
    今後は、上杉景勝の傘下として働くこと、越後の悪口を云う者があれば届け出ることなどを誓った条書。
  57. 武田勝頼知行宛行状 (タケダカツヨリチギョウアテガイジョウ)
    天正8年(1580)、武田勝頼が小河可遊斎に対し、沼田河東の本領を安堵した知行宛行状。
  58. 上杉斉定書状 (ウエスギナリサダショジョウ)
    米沢藩の奉行・中老に宛てた斉定の直書。幕府より普請役が命じられ帰れなくなり、不在の間の国許の政治を宜しくするよう依頼している。
  59. 判所改所御令条書 (ハンジョアラタメジョゴレイジョウガキ)
    米沢藩が、通行手形(入判・出判)を管理する判所と、荷物流通を管理する改所に通達した法令を編集したもの。関連する四境口番所への法令も収録する。

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