現在、ナセBA中2階の先人顕彰コーナーで、「平田東助展」を開催しています。

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会期 令和元年8月23日(金)~10月23日(水)

令和元年8月、東京にあった平田東助の巨大な銅像が米沢市に寄贈され、米沢市すこやかセンター前広場に移設されます。
それに合わせ先人顕彰コーナーにおいて「平田東助展」を企画しました。米沢市上杉博物館や山形県立図書館・国立国会図書館で所蔵する資料や、山形県立米沢商業高等学校の扁額などを展示し、平田東助の生涯と事績を紹介します。

米沢藩医・伊東家の次男として誕生
 
 東助は嘉永2年(1849)に米沢藩医の伊東昇迪の次男として信夫町に生まれ、8歳の時藩医の平田亮伯の養子となりました。藩校興譲館に通学、優秀な成績を収め、明治2年(1869)からは大学南校(東京大学の前身)で洋学を学びました。

ドイツ留学後、官僚として法律制定に活躍
  
明治4年には岩倉使節団の留学生に選ばれ、ドイツで政治学・国際法・商法を学び、博士号を授与されました。明治9年に帰国、内務省や大蔵省、法制局の官僚として主に法律制定に活躍し、明治23年には貴族院議員にも選ばれました。

産業組合の創設と発展に尽力、産業組合の母と称される
  東助はドイツの制度を取り入れた信用組合法の立案に尽くし(法案は廃案)、さらに明治33年には産業組合法案の成立に法制局長官として尽力します。この法律によって数多くの産業組合が結成され、「信用」「購買」「販売」「生産」(後に「利用」)の4事業が営まれ、現在のJA(農業協同組合)だけでなく、生協や信用組合・信用金庫等の母体となる組織として発展していきます。また、東助は産業組合中央会が発足すると初代会頭に就任、以後17年の間、全国の産業組合のトップとして産業組合運動を育成指導し、産業組合の母と称されました。

山形県初の大臣となり、総理就任を要請されるが辞退
 
官僚として活躍する一方、政治家としては山形有朋の側近として、貴族院を束ねる重鎮となりました。明治34年には農商務大臣として初入閣、山形県初、東北でも原敬に次ぐ2人目の大臣でした。同41年には内務大臣に就任し、大正元年(1912)には首相就任を要請されますが辞退、山形初の総理は惜しくも実現されませんでした。大正11年には天皇を補佐する内大臣に任命され、伯爵に叙されました。 

産業組合の発展に尽くし、伯爵まで立身出世した77年の生涯
 
大正14年(1925)、東助は77歳で永眠しました。勉学に励みドイツに4年間留学、その学問と体験を活かし産業組合を創設、その発展に捧げた一生でした。また、米沢有為会の第3代会長や上杉家相談役を務め、置賜各地の信用組合創設に関わるなど、郷里米沢にも強い思いを抱いていました。優れた才能と弛まない努力を重ね、医師の次男から官僚・政治家の道に進み、県内初の大臣に就任、伯爵・正二位まで立身出世した生涯でした。

なお、平田東助展にあわせ、図書館の郷土資料特集コーナーでは、平田東助に関する書籍を紹介しています。